モーツァルト: ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K537 戴冠式
二つの「戴冠式」
音楽といえばオペラ、オペラといえばイタリア、そし
て、オぺラ作曲家すなわち一流の音楽家とはイタリア人
を指すという18世紀末、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は
自国人音楽家モーツァルトの音楽に深い理解を示した数
少ない熱心なパトロンであった。しかし、そのヨーゼフ2
世でさえも、母マリア・テレジア皇太后をはじめとする
周囲からの猛反対のために当初は宮廷音楽家としてモー
ツァルトを雇い入れることは断念せざるを得なかった。
念願叶ってようやくモーツァルトを宮廷に迎えることが
できるようになったのが1787年。
この時、モーツァルトの死まで残すところわずか4年で
あった。
地元ザルツブルクの領主コロレド大司教との不和や本
人の不品行、加えて劇作家ダ・ポンテと組んで書き上げ
た「ふしだら」で「反抗的」な内容の数々のオペラ作品。
所詮は二流のドイツ人音楽家。モーツァルトの名はウィ
ーンの街でありがたくない響きをならしていた。その上、
経済的困窮の噂まで囁かれているとあっては、ハプスブ
ルク宮廷の面々が顔をしかめるのも無理のないことであ
った。モーツァルトに逆風が吹き始めた。
1790年2月20日、ヨーゼフ2世が死去。モーツァ
ルトは宮廷での足場を失ったも同然だった。
モーツァルトは新しく即位したレオポルト2世に宮廷
作曲家の職務の留任を嘆願した。そればかりか王族の子
弟の音楽教育、そして教会音楽の経験を示して宮廷楽長
職までも願い出た。
ただでさえよく思われていなかったモーツァルトである。
サリエリという一流のイタリア人楽長が長く宮廷のその
地位にあるのを承知していながら楽長職を願い出た行為
は僭越であるとして、宮廷内の反感を一気に買ってしま
ったのだ。結果、宮廷作曲家としての地位は保障された
ものの、新皇帝戴冠に関する祝典行事からは一切はずさ
れてしまった。
戴冠式の執り行われるフランクフルトへ随行したのは
、楽長サリエリとウムラウフだった。その年秋に行われ
た宮廷の二つの結婚式の祝典の仕事でもサリエリ、ハイ
ドン、ワイグルといった宮廷にゆかり深い音楽家が任命
されるも、モーツァルトに声が掛かることはなかったの
である。
同じ頃、ケルン選帝侯のお膝元ボンで19歳のベート
ーヴェンが「レオポルト2世の皇帝即位を祝うカンター
タWOo88(1790年)(「皇帝ヨーゼフ2世の葬送カ
ンタータ WOo87」と対)を作曲していた。
宮廷音楽家の面目躍如たる戴冠式の仕事からはずされ
たモーツァルトは、しかし、ただ指をくわえて黙って見
ているようなことはしなかった。
すぐに旅支度を整え、新皇帝戴冠の地であるフランクフ
ルトへと向かった。
数々の祝典行事で人々がごった返しているフランクフル
トでコンサートを開き、一攫千金とまではいかなくても、
せめて当面の経済的窮地を脱するだけの金を工面しよう
との考えだった。
フランクフルト在住のひいき筋の貴族に頼み、早速フラ
ンクフルト市立劇場を借りる算段を整えた。
しかし、祝典ムードで盛り上がっているフランクフルト
では、盛大な夜会が連日あちこちで催され、昼はパレー
ドなどのにぎやかな行事で沿道が埋め尽くされる有様で
ある。人々の足がモーツァルトによる演奏会に向かう事
はなかった。
あてが大きくはずれ、落胆隠し切れないモーツァルト。
「今日、11時にぼくのアカデミーがありました。名誉
の点(演奏の出来栄え)については素晴らしかったが、
ほとんどお金にはなりませんでした。・・・運の悪いこ
とに、ある貴族による大午餐会や、ヘッセン兵の大観兵
式とも重なったのです。と、こんな具合に、ぼくがここ
に滞在中は毎日何か必ず邪魔がはいるのです・・・」
(妻コンスタンツェへの手紙)
フランクフルト市立劇場で行われた演目は、
二つのピアノ協奏曲、すなわち、ニ長調の新作(本作K537ー
このときは「戴冠式」との表題はない)と少し前の作品ヘ長調
(K459)、それと新作の交響曲(K504「プラハ」、もしくは
K543、または、K550、K551「ジュピター」のいずれか)、女
性歌手とカストラートによるアリア数曲とモーツァルトによ
る即興演奏であったという。
市立劇場におけるこの時の「赤字」コンサートでの上演の
ためか、ピアノ協奏曲K537はモーツァルトの死後出版された
楽譜に「戴冠式」との表題を付けられることになる。以後、
K537は「戴冠式のために作曲・上演された作品」であるかの
ように認知される。単なる誤解か、楽譜出版社の営業戦略か。
しかし、モーツァルトのピアノ協奏曲K537はこの時の上演
が初演どころかこの慶事の為の書き下ろしでさえなかったの
である。
作曲年はさかのぼること2年前の1788年。
翌1789年のプロイセン旅行の際に立ち寄ったドレスデンでザ
クセン選帝侯に披露されたことがわかっている。しかし、こ
の時の演奏K537の初演であるかどうかについては、作曲年と
の間に約一年もの間が空いていること等から疑問の余地を残
しており、作品が成立したいきさつとともに不明のままだ。
金銭目的のために上演されて「戴冠式」の名で知られるよう
になったモーツァルトの作品。
一方、 戴冠式式典のためにボンの公的機関より正式な委託
を受けて作曲されたベートーヴェンの「戴冠式カンタータ」。
なぜか初演は作曲されてから100年近くも後の1884年、ウ
ィーンでのことである。
この作品がベートーヴェン作品中でほぼ無名に近い理由の一
つに、作品の初上演中止と楽譜の秘蔵があると思われる。
(そのほかの理由として、ベートーヴェンには知られざる声
楽曲が多数あることから声楽分野では才能を発揮することが
なかった、との評価も挙げられるだろうか。)
二つの作品の認知度は全くの両極に位置するが、作品成立
の経緯も好対照を成しているのであった。
岸本礼子
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