曲目解説



ベートーヴェン ピアノソナタ 第26番 変ホ長調 op.81a 「告別」

 

「大公はハンガリーの大僧正になるので、オルミュッツの僧正にはならないという噂が前からあります。ハンガリーの大僧正なら少なくとも年収300万はあるでしょうから、毎年たっぷり100万を私のために使ってください、と申しでるつもりでいました。」
−1811年10月19日 ベートーヴェンの手紙ー

ベートーヴェンほどの気難しい芸術家とのパトロン関係は、それがたとえ気前のよい出資者であっても、その関係の良好さを維持することは、至難の業であったといわれる。そんな中、ルドルフ大公との関係は例外的といえる。上記の手紙の内容は、見方によっては図々しいとも取れる内容だが、この手紙の全体的に明るい論調から研究者の間では、大公との親密な関係を証明するもの、として扱われている。「ルドルフ大公には殊のほか親しくねだれる間柄だったのではないか」が、大体の見方である。ルドルフ大公に献呈された作品も多く、有名なものも少なくない。「荘厳ミサ曲」、「ピアノ三重奏曲 大公」、「ピアノ協奏曲第5番 皇帝」、そして、本作品「ピアノソナタ 告別」などである。そして、「告別」は、二人の親密さを語る上で欠かせない、特別な作品でもある。 

1809年、フランスと戦争状態にあったオーストリアは、同年四月のナポレオン軍によるウィーン進駐を受け、王侯貴族らが、ウィーンを脱出、疎開することになった。当然大公もウィーンを離れることになり、それを受けてベートーヴェンが大公が出発した1809年から戻ってくる翌1810年にかけて書いたのが「告別」であった。作品冒頭部に「1809年5月4日 ウィーンにて、尊敬するルドルフ大公殿下のご出発に当たって」と書き込まれている。第二楽章「不在」、第三楽章「再会」と、各章ごとにつけられた標題、そして、草稿には「尊敬するルドルフ大公殿下御帰還 1810年1月30日」ともある。楽曲上も、ピアノの名手でもあった大公を思ってのことか、華やかな技巧をふんだんに盛り込んでいるものの、どこまでも冷静で知性的、独特の情緒をかもしだしており、あたかも大公との会話を想起させるような対話風の構成がその情緒をいっそう深く匂わせている。中期の特徴であり、しばしばベートーヴェン作品全体の特徴ともいわれる標題性が楽曲の構成だけでなく、副題である「告別」の語そのものにもあらわれているが、第一楽章冒頭からの匂いたつような叙情性は、後期3大ソナタを彷彿とさせるといっても過言ではない。この時期の背景にナポレオン軍率いる仏軍の占領、敗戦によるインフレ、耳疾の悪化など挙げられるが、この厳しい現実と作品に表れている叙情性は無関係とはいえない。現実を取り巻く厳しく耐え難い環境が、天才の精神をはるかな別世界へと向かわせたといえるかもしれない。衰えてゆく聴覚は現実世界の雑音を遮断し、この世のほかの世界への扉を開ける。その扉の向こう側の輝かしい光の彼方へと続く道の先に、楽聖の夢見たユートピアがある。カンタービレ(歌うよう)でエスプレッシーヴォ(表情ゆたか)な極彩色の世界が。

岸本礼子

◆ 参考文献
・メイナード・ソロモン著  ベートーヴェン(上・下) 岩波書店   (絶版)
・作曲家別名曲解説ライブラリー 3 ベートーヴェン 音楽の友社
・ロマン・ロラン著  ベートーヴェンの生涯 岩波文庫
・大築邦雄 ベートーヴェン 大音楽家・人と作品 4  音楽の友社
・ベートーヴェン大事典  平凡社

◆ 参考文献総目録

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